行基の鯉塚(愛の郷だよりバックナンバーより)

阪神間にはいろいろな昔ばなしが残されております。それらの中からいくつかストーリーに沿ってあらすじをご紹介させて頂きます。ご紹介させて頂きますのはセントポーリア愛の郷の近隣のお話です。

昔、行基と言う偉いお坊さんがいました。国中をあちこち旅しながら、悪い病気に苦しむ人たちをみては治していました。

行基が摂津の国の有馬に名湯があるとの話を聞いて、やってきたときの話です。険しい山を越え、丁度船坂あたりにさしかかると、行基は一歩も歩くことができなくなってしまいました。どのくらいたったでしょうか。山仕事を終えた村人たちが通りかかり、松の木にもたれてグッタリしている行基を見つけ、急いで村へ連れて帰りました。

村人たちは、「何か元気の出る食べ物を」と考えるのですが、村は貧しくその日暮らしがやっとで粗末な食べ物しかありませんでした。「そうだ、鯉を食べると元気が出るそうだ」「よし、わしがひとっ走り山を越えて、奥の池の鯉を掴まえてこよう」と、威勢のいい若者が大きな籠を抱えて、駆け出して行きました。

やがて、帰って来た若者の籠には、池の主かと思われるような見事な大鯉が入っていました。早速、村人たちがその鯉を料理して、行基に食べさせました。すると、行基はみるみる元気になっていきました。すっかり元気な体になった行基ですが、なぜか心は晴れません。庭に捨てられた鯉の骨を見て、行基は考えるのでした。「わたしの命は助かったが、その代わり、命あるものが一つ消えてしまった」行基は念仏を唱えながら、丁寧に鯉の骨を拾い集めました。そして、塚を作り、鯉の供養をしました。

行基は奈良・東大寺の大仏造営で知られる僧(668~749 年)です。当時諸国を巡遊し、池堤の設置、寺院建立、道路開拓、橋の架設などを行い、それぞれの地域で人々のために尽くしていました。そのため人々から菩薩とあがめられていました。

有馬においても後の仁西上人、豊臣秀吉と共に有馬温泉の三恩人と呼ばれています。
その中でも行基の功績は大きく、有馬にとどまらず日本全国に足跡が残されています。

行基と鯉との話は大阪の豊中市にある椋橋(くらはし)総社に残されています。東に神崎川、西に猪名川が流れ、風光明美なこの地はかつて貿易港として栄え、周りには船問屋、船宿が並び税関もありました。その中心に椋橋神社は位置し、遠き神代の昔からの言い伝えもあり、別名を鯉の宮と呼ばれていました。社殿に鯉塚、境内に鯉池があり鯉にまつわる神話や伝説が残されています。

その当時行基は困っている椋橋に住む人々のために橋を架けようとした時、工事がうまくはかどらないところを鯉に助けられ、それ以来神が鯉を遣わされて助けられたものと感謝し、椋橋において鯉を捕ったり、食べることを禁じたという話が残されています。だから行基にとって知らなかったとはいえ鯉を食べてしまったことは、耐え難く辛かったと想像されます。

今回この鯉塚を探しに船坂にある山口町多目的広場を訪れました。住所表示に鯉塚が残っていましたので何かあるのではと思い行ってみました。しかし、何も見つかりませんでした。 今では船坂の山口町多目的広場や西宮高原ゴルフクラブあたりに「鯉塚」と言う地名が残っています。

https://ryokuhokai.com/pdf/201107.pdf