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大還暦神社に初詣

1月9日(土)、3階南フロアで製作(建立)した『大還暦神社』に是非他のフロアの方もお参りできるように、鳥居と社を移動して初詣を開催しました。

皆さま熱心に拝んでおられ、大変喜んでくださいました(^-^)

【2021年】新年明けましておめでとうございます

新年明けましておめでとうございます!本年もセントポーリア愛の郷をどうぞよろしくお願いいたします!少しですが、セントポーリア愛の郷のお正月の様子をお伝えします。

お昼は豪華なおせち料理がでましたー(о^∇^о)

 

3階のフロアでは今年も「大還暦神社」が建立されました。みなさん順番に祈願しおみくじをひいておられました。

お正月の定番、福笑いで楽しんでおられました。

 

今年は丑年ということで、ご入居者の皆さまが可愛いマスコットを作ってくださいました(^-^)

今回はコロナ禍の中でのお正月となってしまいましたが、セントポーリア愛の郷では変わらずゆったりとした時間が流れています。

 

それではまた~

職員が一丸となった施設行事

コロナ禍で外部ボランティアの受け入れが出来ない状況の中、セントポーリアでは職員手作りの施設行事を行っています。11月1日(日)の「文化発表会」では職員によるステージイベントが行われました。多人数が集まってのイベントは感染の危険が高まる為、6つのブロックそれぞれに職員で編成した演奏や踊りのチームが回るという形で実施しました。

この日の為に編成された3チームを紹介します(^^♪

①音楽療法士、機能訓練指導員によるバンド

和をテーマにした衣装で、「与作」「斎太郎節」等を演奏しました♪

 

②音楽療法士、事務員によるユニット

深紅の衣装で「愛の賛歌」を熱唱したり、スカーフを使った参加型のステージを展開しました。

 

③介護課長、介護課長補佐による踊り

原始人?に扮し、「ジンギスカン」の歌に乗せたダンスを披露しました。写真撮影会も好評でした♪

それぞれのチームがこの日の為に打ち合わせ、練習を積み重ねてきました。本番ではその甲斐あって大変盛り上がっていましたよ(^_-)-☆そしてステージを披露する職員だけでなく、その他の職員が積極的に盛り上げ、ご入居者の方々が楽しめる雰囲気を作っていた素晴らしい行事でした。コロナ禍で大変なこの時だからこそ、あえてご入居者の余暇や楽しみの部分に目を向け、施設をあげて作り上げるイベント。職員が一丸となるいい機会となりました。

 

秋空を眺めながらの昼食    【未経験でも働きやすい特養】

9月11日(金)ランチタイムコンサートを開催しました。いつものパブリックスペースではなく、眺めの良い3階の部屋での開催でしたので、秋空を眺めて季節を感じられるイベントになったようです。音楽療法士やその他職員によるオカリナ演奏や歌も、場の雰囲気を盛り上げていました。

いつもと違う雰囲気で、生演奏を聴きながらのランチは格別だったようです。

いつもと違う雰囲気の中の食事にビールも進みますね♪

天気は生憎の雨でしたが、ススキや秋桜等季節の草花もディスプレイし、秋の雰囲気を演出しました♪

 

セントポーリア愛の郷では、「入居者、利用者の皆様を楽しませたい」という気持ちを持った方を大募集しています(^^♪

詳しくはコチラ→セントポーリア愛の郷リクルートページ

コロナウィルスに負けずに楽しみを♪【未経験でも安心感】

外部からのボランティアの受け入れや、大々的な行事が開催出来ない今、ご入居者の生活の中に潤いや楽しみを与える事が音楽療法士の重要な役割となっています。

セントポーリア愛の郷では、音楽療法を行う際、音楽療法士がマスクとフェイスシールドを併用して感染のリスクを軽減しています。

こうして見ると何か物々しい感じもしますが、そこは音楽療法士の力の見せ所。音楽の力をフルに使って和やかで楽しい時間を提供しています😄

この日は梅雨の時期という事もあり、雨に因んだ音楽療法を行いました。そこで登場したのがこちらのレインスティックという楽器。

一見ただの木の棒に見えますが、傾けると雨の降る音が心地よく響き渡ります。枯れたサボテンの中に小石や木の実を入れて作られています。簡単に癒しの音色が奏でられるので、ご入居者の皆様にも好評です✨

 

私たちと一緒に働きませんか?☺️

詳細はコチラhttps://ryokuhokai-rec.com/

「コンサート指向型音楽療法」 (愛の郷だよりバックナンバーより)

今回はセントポーリア愛の郷で行っている音楽療法のひとつ「コンサート指向型音楽療法」についてご紹介します。

この音楽療法は、ご入居者にコンサートに出演して頂く事で普段味わえない緊張感や、達成感を味わって頂くのはもちろん、本番に向けて練習する中での他の方との交流や、生活にハリを持って頂く事等を目的に行っています。

合奏に使用する楽器は主にトーンチャイムですが、参加者の皆さんの音楽経験や好みに合わせてギターや打楽器等を用いる事もあります。「音楽は好きだけど楽器は出来るか不安」という方にも出来るだけ簡単に、楽しく演奏して頂けるような編曲を行い、皆さん毎回本番では素晴らしい演奏を披露されます。普段触れる機会の少ない楽器を演奏出来るという事もあり、コンサートを鑑賞されたご入居者が自ら参加したいとおっしゃる事も少なくありません。

毎年11 月の「文化発表会」、4 月の「若葉を眺める会」で演奏が披露されています。

 

https://ryokuhokai.com/pdf/201610.pdf

ナスのたたり (愛の郷だよりバックナンバーより)

船坂は有馬温泉に通じる道すじで、峠になっています。冬はとても寒い日が多く、その日も吹雪の舞う寒い日でした。お百姓の弥太八は、家の中で竹を割って籠を編んでいました。

もう日が暮れかけています。「おお、寒い寒い。これを仕上げて夕飯にしよう」その時、トントンと表戸をたたく音がしました。
「今時分誰だろう」と、戸を開けてみると、激しい雪の中に一人の老人が立っています。「私は丹波の者ですが、有馬の湯へ行く途中、ひどい吹雪になり、おまけに日も暮れてしまい困っています。一晩泊めてはもらえますまいか」

弥太八は親切な人でしたから、すぐに老人を中に入れ囲炉裏端に招きました。
「さあさあ、 火にあたりなされ。こんなところでよければ、休んでいきなされ」と、茶わ
ん酒などを勧めます。老人は心から感謝し、うちとけて身の上話を始めました。
「私の村は丹波の山深い所でして、米や野菜があまりできません。村の者は、山で木を切ったり、炭を焼いたりして細々と暮らしておる。私は暮しのたしになるものが何か出来ないかと考
え続けました。このままでは村の皆が住めんようになる。いろいろ考えた末、妻や子を残して村を出て来ましたのじゃ。あれからもう十九年、ずいぶん昔のことになります。ハイ」

老人は長い年月を確かめるようにうなづき、話を続けます。「何か村の役に立つことを見つけようと、北へ北へ行きました。どれだけ訪ね歩いたことか。やっと出羽の山形という
所で、えらいお百姓さんに出会えましたのじゃ」

「そこは私の国より高い所なんですよ。その上、雨や雪が多くていい作物が育つとも思えん所じゃ
った。それなのにりっぱなナスを作っていなすって、名物になっているのじゃ。

私は、これじゃと思った」「私はたのみ込んで何ヶ月か住み込み、やっとナス作りを教えてもらえた。そこのお方が何年も何年も苦労し、改良に改良を重ねて作り上げなすったナスじゃ。村の
外へは出せない種なのじゃ。けれど、こんなに遠くまで来たお前さんのことだからと、大切なナスの種を分けてくれたんじゃよ」

いかにも嬉しそうな顔をほころばせ、湯飲みの酒をごくりと飲んだ。「私はその種を持って、丹波の家を目指し急いで帰ってきましたのじゃ。長い道中のことで賊に襲われて大事なお金をとられたこともあった。けれど、この種だけは守って持って帰って来ましたのじゃ。やっとここまで帰ってきたので、旅の疲れを休めようと有馬の湯へ向っていたが、雪がひどいので行き倒れになるところじゃった。こうしてご親切に休ませてもらい、ほんとにありがたいことじゃ」

老人は熱心に話し、嬉しそうな顔でその場に寝込んでしまいました。

弥太八は聞いているうちに、自分がナスの種を探しあて、持って帰ってきて船坂の村を豊かにするような気持ちになりました。船坂の村もこの老人の村と同じように高い土地にあります。ふつうの農作物が良く育たず、苦しい生活をしているのです。「そのナスが欲しい。そのナスを育てたら、村の暮しは良くなるに違いない。
村中どんなに喜ぶことか」弥太八はもうたまらなくなりました。弥太八の手が自然に動いて、老人の腹巻をさぐりました。
「ああ、いけないことだ」と、いったんは手を引っ込めましたが、次の瞬間には夢中で、種の袋を引っ張り出しているのでした。震える手で別の種を入れ替え元の腹巻に入れたのでした。

夜が明けると、老人は弥太八に何度もお礼を言い出て行きました。弥太八はほっとしながらも申し訳ない気持ちでいっぱいです。じっと囲炉裏の火を見つめて考え込んでいました。

その時、外で騒がしい村人の声がしました。飛び出してみると、「村はずれで旅の老人が死んでいるぞ」と大きな声で叫んでいます。
「もしや」と思い、走って行くと、やはり昨夜の老人が倒れています。弥太八は老人に取りすがりました。死んでいると思った老人が、大きく目を開き、恨めしそうに弥太八を見ました。
「ナスの種がない。ナスの種をとられた。残念じゃ・・・。あのナスを作る者にたたってやるぞ」
そう言い終わるなり、息が絶えました。
弥太八は老人を手厚く葬りました。やがて船坂の村はナスづくりが盛んになり、形も味も良い『船坂の長ナス』と言われ、有名になっていきました。

ところがどうしたことでしょう。そのころから村人の歯に黒い斑点ができるよう
になったのです。いくら磨いても落ちません。ひどい場合には歯が腐ったようになります。弥太八は毎日苦しい心で過ごしました。「これはきっとナスのたたりに違いない」

老人が死んでから十年目の命日に、弥太八は村人たちに集まってもらいました。そこで、老人のナスの種をすりかえたことを打ち明けました。村人たちに老人のお祭りを盛大にしてもらった後、弥太八は罪を償うため旅立ってお寺に入ったということです。その後、『なすび歯』と言われた黒い歯はだんだんなくなっていきました。

https://ryokuhokai.com/pdf/201106.pdf

西宮北部地域(愛の郷だよりバックナンバーより)

西宮市の地図を見ると盤滝トンネルを挟んで北と南に2分されています。
北部は昭和26年に山口村と塩瀬村が西宮市に合併した地域です。旧山口村は中心部を有馬川が流れ、かつては有馬温泉と三田を結ぶ国鉄有馬線の沿線でその途中駅『有馬口』という駅が山口村にありました。これは現在の神戸電鉄の有馬口駅とは違う駅です。

この有馬線は沿線の人々の利用と旧有馬郡の特産品を運ぶために開通したものだけに、有馬村と同じ神戸市を希望する人がほとんどでした。旧塩瀬村は名塩と生瀬を合わせた地名で、宝塚と市街地が続いていて宝塚寄りの立地です。

旧山口村・塩瀬村は西宮市の他の地域とは陸続きではありますが、それぞれ、神戸市・宝塚市と合併した方が自然と思われる場所です。現在の西宮市山口町・塩瀬町と市内の他の地域とは急峻な六甲山脈に遮られて事実上飛び地の状態になっています。それが原因で不都合が生じます。

例えば現在西宮市には救急車は10台あり、私たちを担当する山口分署と名塩駅前の北消防署に 1 台ずつ配置されています。つまり、西宮北部の山口地区と名塩・生瀬地区はこの2台の救急車が守っています。

しかし、西宮市の救急車の出動件数は年間約 18,000 件ですが、西宮北部の両地域の合計出動件数は 1,300 件にも満ちません。つまり、この 2 台のどちらかが他の地域からの救急応援に行かなければなりません。だから救急車が不在のことが多くなっています。消防署に伺うと、通報してから救急車の到着まで「全国平均で 6.5 分かかり、西宮市は 5 分以内だ」とおっしゃっていました。但し、この時間は北部地域(山口・塩瀬)は除かれていました。北部地域は運が悪いと 20~30 分待つ必要があるそうです。その間、AED、胸骨圧迫、人工呼吸が必要となります。もともと、この2町の前身である有馬郡山口村・塩瀬村は隣接する有馬町・有野村が昭和 23 年 3 月 1 日神戸市に合併したのち、まだ神戸市と合併していなかった大沢村・八多村・道場村とともに神戸市への編入を希望していました。けれども、この2村は兵庫県の反対にあい断念しました。

そのころ宝塚市はまだ存在せず、武庫郡良元村・川辺郡小浜村(後の宝塚町)・長尾村・西谷村に分かれていて、良元は西宮市から、長尾は伊丹市からそれぞれ合併の誘いがありました。そんな中、西宮市は山口・塩瀬2村に対し合併話を持ちかけ、両村は神戸市との合併が絶望になったのを受け、誘いに乗り、昭和26年4月1日西宮市と合併しました。なんとその3ヶ月後の7月1日、かつて足並みを揃えていた大沢・八多・道場3村が神戸市との合併を果たした。武庫郡良元村が西宮市との合併話を蹴り小浜村(宝塚町)と合併し、宝塚市が誕生したのは3年後の昭和29年4月1日のことでした。

このようにして山口町・塩瀬町は西宮市と合併しましたが、タイミングが違っていたなら、両町は神戸市、宝塚市と合併していても不思議ではありませんでした。そうなっていれば西宮市は面積が半分の小さな市で現在のような発展はなかったと考えられます。

 

https://ryokuhokai.com/pdf/201108.pdf

行基の鯉塚(愛の郷だよりバックナンバーより)

阪神間にはいろいろな昔ばなしが残されております。それらの中からいくつかストーリーに沿ってあらすじをご紹介させて頂きます。ご紹介させて頂きますのはセントポーリア愛の郷の近隣のお話です。

昔、行基と言う偉いお坊さんがいました。国中をあちこち旅しながら、悪い病気に苦しむ人たちをみては治していました。

行基が摂津の国の有馬に名湯があるとの話を聞いて、やってきたときの話です。険しい山を越え、丁度船坂あたりにさしかかると、行基は一歩も歩くことができなくなってしまいました。どのくらいたったでしょうか。山仕事を終えた村人たちが通りかかり、松の木にもたれてグッタリしている行基を見つけ、急いで村へ連れて帰りました。

村人たちは、「何か元気の出る食べ物を」と考えるのですが、村は貧しくその日暮らしがやっとで粗末な食べ物しかありませんでした。「そうだ、鯉を食べると元気が出るそうだ」「よし、わしがひとっ走り山を越えて、奥の池の鯉を掴まえてこよう」と、威勢のいい若者が大きな籠を抱えて、駆け出して行きました。

やがて、帰って来た若者の籠には、池の主かと思われるような見事な大鯉が入っていました。早速、村人たちがその鯉を料理して、行基に食べさせました。すると、行基はみるみる元気になっていきました。すっかり元気な体になった行基ですが、なぜか心は晴れません。庭に捨てられた鯉の骨を見て、行基は考えるのでした。「わたしの命は助かったが、その代わり、命あるものが一つ消えてしまった」行基は念仏を唱えながら、丁寧に鯉の骨を拾い集めました。そして、塚を作り、鯉の供養をしました。

行基は奈良・東大寺の大仏造営で知られる僧(668~749 年)です。当時諸国を巡遊し、池堤の設置、寺院建立、道路開拓、橋の架設などを行い、それぞれの地域で人々のために尽くしていました。そのため人々から菩薩とあがめられていました。

有馬においても後の仁西上人、豊臣秀吉と共に有馬温泉の三恩人と呼ばれています。
その中でも行基の功績は大きく、有馬にとどまらず日本全国に足跡が残されています。

行基と鯉との話は大阪の豊中市にある椋橋(くらはし)総社に残されています。東に神崎川、西に猪名川が流れ、風光明美なこの地はかつて貿易港として栄え、周りには船問屋、船宿が並び税関もありました。その中心に椋橋神社は位置し、遠き神代の昔からの言い伝えもあり、別名を鯉の宮と呼ばれていました。社殿に鯉塚、境内に鯉池があり鯉にまつわる神話や伝説が残されています。

その当時行基は困っている椋橋に住む人々のために橋を架けようとした時、工事がうまくはかどらないところを鯉に助けられ、それ以来神が鯉を遣わされて助けられたものと感謝し、椋橋において鯉を捕ったり、食べることを禁じたという話が残されています。だから行基にとって知らなかったとはいえ鯉を食べてしまったことは、耐え難く辛かったと想像されます。

今回この鯉塚を探しに船坂にある山口町多目的広場を訪れました。住所表示に鯉塚が残っていましたので何かあるのではと思い行ってみました。しかし、何も見つかりませんでした。 今では船坂の山口町多目的広場や西宮高原ゴルフクラブあたりに「鯉塚」と言う地名が残っています。

https://ryokuhokai.com/pdf/201107.pdf

六甲山麓温泉物語 (愛の郷だよりバックナンバーより)

神戸・阪神間には天然温泉が多くあります。われわれの住む六甲山麓の北部には日本三古湯のひとつ有馬温泉を筆頭に、フルーツフラワーパークの大沢温泉、鹿之子温泉、八多のぽかぽか温泉、唐櫃温泉などがあります。六甲山の南側でも新たに温泉が湧き出したり、以前温泉が出ていた諏訪山温泉や布引温泉などもありました。東では宝塚温泉、武田尾温泉など有名な温泉が名を連ねす。もっと先に行くと箕面温泉、伏見温泉など、温泉地が連なっています。
もともと六甲山は火山性の山ではなく、プレートが押されることにより盛り上がってできた山です。六甲最高峰の高さはプレートが動くたびに変化し、阪神淡路大震災前は 931.13m でしたが、震災後には 931.25m と 12cm 高くなりました。
しかし火山が存在しない六甲山周辺に温泉が多いのは不思議に思えてなりません。近年有馬温泉の金泉の起源は瀬戸内海ではなく、太平洋(南海トラフ付近)の海水を起源とすることが解明されました。それでもう少し調べてみますと、これらは非火山性の温泉で、地下のマグマを熱源とはしない温泉でした。その熱源や温泉水の起源については、わかってないものが多いですが、地質的に活断層である有馬高槻構造線の西端にあるため地下深くまで岩盤が割れて、その割れ目を通って地下深くから温泉水が噴出しています。阪神淡路大震災の時に活断層という言葉が出ていましたが、この断層に沿って湧き出しているのがわかっています。つまり、断層は温泉の通り道ということになります。
それを最も単純に表すと六甲山周辺は、『温泉が多い』=『断層が多い』=『地震時に被害が大きい』=『普段から災害に備える』という等式が成り立つのではないでしょうか。温泉地が近いというのは大きなメリットでありますが、災害に対する心構えが必要です。

 

https://ryokuhokai.com/pdf/201205.pdf